★Facebookの希望は「品格あるマーケティング」だ! 真摯に向き合う価値がある

人の輪
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Facebookは品格をもって使うとき、最良のマーケティングツールになる。
数あるソーシャルメディアの中でも、格別に変わっているSNSだが、真摯に向き合えばきっとあなたのビジネスを助けてくれるだろう。


Facebookは計算通りにいかない、思った通りの反応が得られない。

これはみんなに伝えたい、私の根幹だ――と思えるような記事を書く。
そういう時に限って、反応が薄い。
一方、肩の力を抜いた雑報が想像もしなかったような広がりを見せる。

それではと、柳の下のドジョウを狙うと今度はスルー・・・・。

 

まことにとらえどころがない。

 

私は地方新聞社の記者や編集責任者を長く勤めてきた。
28年目にして初めて編集局を離れ、手持無沙汰をかこっていた時にツイッターを始めた。それがソーシャルメディア事始め。やがてFacebookも始める。
ツイッターは”発信者”然ともっぱら書きっぱなしであったが、Facebookではじめて”本格的な交流”を知った。

 

新聞の1面コラムを書いていた時期がある。
へたくそな書き手だったのだろう、読者からの反響はあまりなかった。
日に1、2枚はがきが届く程度。新聞と読者の距離は遠かった。
その点、Facebookは革命的である。目の前で読み手の”肉声”が入ってくる。
間髪を入れずにやりとりもできる。熱っぽい。夢中になった。

 

■人の輪をつくりたがるFacebook

しかしほどなくして、Facebookの変なクセに気づいた。
Facebookには見えない”かたまり”があるようなのだ。それも随所に。
いや、もっと言えば、1人ひとりに対してあるのではないか、と思えるくらい。
まじめに人の投稿を読んでいると、人と人のつながりが見えてくる。
わりあい小ぶりなコミュニティであるようだ。
”外から”コメントしようとすると、割って入るようで居心地が悪い。

『コレはなんなんだろう?!』

 

無理してコミュニティに参加する気になれなかった。
それならば自分でやろう。人を多く集めればいいのだろう?
ツイッターでフォロワー集めに躍起となった時期があり、もともとがマスメディアにいたこともあって、私にとって「情報を広げる」というのは”読み手”を増やす以外の方法が思いつかない。それでせっせと友達申請。Facebookでもこれをやった。まず500人。そして1000人・・・・。

 

しかし、『どうも違うらしい』と気がついた。

 

■「いつも」の壁があると感じた

友達が増えても「いいね!」の数は比例して増えていかない。
「壁がある」と感じた。50であったり、やがて100であったり、
数字は漸増するのだが、ワッと増えるようなことがない。
硬軟とりまぜさまざまなネタを、書き方もいろいろ工夫したが、
反応は「いつも」とあまり変わらない。

 

いいね!してくれる人はいつも同じ。
友達が1000人と倍増しても、顔ぶれはほとんど変わらない。
不人気のせいだと思っていた。自分の投稿に魅力がないのだと。
それで人の投稿記事を分析してみる。
いいね!が多くても別に記事がすばらしいわけではない。
一方、いつも魅力的な文章を書くのにいいね!が少ない人もいる。

『投稿の質ではないようだ』
では、なんだ?

20141001人の輪

一言でいえば「熱心さ」である。
まめにいいね!し、コメントする人の所に人が寄る。
なぜ自分の投稿には人が来ないのか。
ホスピタリティが欠けているからだ。
コメントをもらっても返信さえしない。
『なんだ!』と思われても仕方なかった。

 

単純なことだった。
投稿が読まれさえすれば一定の確率でいいね!は付く。
そうならないとすれば答は一つ、投稿が友達に届いていないということだ。

 

■Facebookの投稿は「友達」全員には届かない

Facebookは「友達に投稿が届く」と書いているが、
全員になんかゼッタイに届いていない!とひらめいた。
後からそれはFacebookのアルゴリズムのせいだということがわかった。
これを「Facebookの操作」というかどうかは別として、ともかく
Facebookは一定のルールにしたがって投稿記事を割り振っているらしい。

 

投稿が全員に届いている、という錯覚はツイッター体験から来ていた。
ツイッターはフォロワーが1万人なら、とりあえず1万人に投稿が届く
(読まれているとは限らないが、届くことは届く)。
Facebookは違う。投稿やメッセージのやりとりが頻繁な人、
つまり”密な交流”のある人が優先のお届け先になる!

全員が同じ仕組みで”操作”されれば、濃い人とはますます密になり、
薄い交流の人はやがて視界から消えていくのは当たり前だった。

 

なんともお節介なソーシャルメディアに思えた。
「ただ単純に全員に届けてくれればいいのに」
でも後から参加したユーザーがそんなことをぼやいていても、
Facebookの頑固な設計思想を変えられはしない。
郷に入っては郷に従えだ。
従っていると、そのクセの欠点ばかりでなく、よさも見えてくる。

Facebookはコミュニティ化を促すばかりでなく、強固な”人の輪”の連鎖で、
思いもよらないクチコミ効果を発揮することもある。
ただ惜しむらくは、計算通りには行かなかったが。

 

■本音のありどころに迷うFacebookユーザー

Facebookを使い始めてから4年。
Facebookを取り巻く環境はかなり様変わりした。熱狂は去ったみたいだ。
日本人はあきっぽい? 
いや、そうではなくて、みなFacebookを使いこなせなかったのだと思う。
クセの強さを理解できなかったのだ。
それなのに「ビジネスに使える」とばかり一部の人たちは大はしゃぎ。
それを冷めた目で見る人が増えて、今度は”反作用”が働いた。

 

慣れない「実名投稿」に妙にかしこまったり、
本音、本気を避けて当たり障りない日常を繰り返し語ったり。
さしてひかれる投稿でないのにいつもの「いいね!」をしてみたり。
言葉のみ、文章のみのFacebookは、現実よりもおつきあいが難しい。
本音のありどころに、みな迷ってしまったようだ。

 

そして暗黙の了解が生まれた。
<Facebookで売り込みは嫌われる!>

 

「ビジネスに使える」コールに対して厳しい反作用だ。
でも、度が過ぎている。「羹(あつもの)に懲りてなますを吹く」の図。
商売ご法度と思い込むのは勝手だが、
そんなこと、当のザッカーバーグだって思ってやしない。
商売をさげすむ思考は、彼にはない。

 

<日本のFacebookは身ぎれいになりすぎて困ったものだ>
とザッカーバーグは半ばあきれ、半ば感嘆しているのではなかろうか。
「辺境の国はこれだから・・・・」と、
世界の常識が通用しない事実を理解できないでいるのではないか。

 

■売込みアレルギーがFacebookの普及の障害に

Facebookの日本人ユーザーの”商売アレルギー”は、
Facebookの健全な普及の足かせになるだろう。
これはとても惜しい。

新聞、ラジオ・テレビの隆盛により日本はマスコミ大国になった。
多くの人がマスメディアの大量、かつ一方的な情報にさらされる。
影響を受け、刷り込まれる。1990年代から始まったインターネット時代が、
個人でも情報発信できる時代へと扉を開いた。

 

ホームページ、メールマガジン、掲示板、そしてブログが台頭してその後、
mixi、ツイッター、Facebook・・・・と個人発の情報は加速度的に増えている。

 

新聞業界にいたとき、ソーシャルメディアはただの自己満足ツールだと
思っていた(不遜にも)。しかし使ってみてすぐに誤まりに気づいた。
個人が情報発信する手段を持ち、安価で(というよりほとんどタダで)
それを発信できる時代というのは有史以来初めてのことである。

「ビジネスに使えるか」どころではない。
私自身のことをいえば、人生が変わってしまった。
60歳を過ぎてから起業しようなんて気持ちになれたのは、
自ら情報発信ができる時代であればこそだ。

 

 

■それでも、Facebookをやらなくていいのか?!

あれから4年。開業してからも2年半がたつ。
Facebookの熱狂は去ってしまったみたいだ。
スパムアカウントの放置で「Facebookはコワい」といわれるようになった。
使い方も難しく、不用意に使うがために想定外の漏えいや不都合なダダ漏れが頻発して、せっかくのアカウントを敬遠する人が増えた。
さらにあれほど言われた「Facebookはビジネスに使える」大合唱も、
結果的にはさしたる効果なく、この面からも「なんだ」という落胆が広まっている。

 

まことにもって残念な風景だ。
しかし情報拡散の不調をFacebookのせいにする前に、自分の「情報への接し方」「取り組み方」を振り返ってみるべきではないか。
もっと率直にいえば「Facebookをやらなくていいのか」と問いたい。

 

■世間のルールがすっかり変わった

現実社会の風景を見てほしい。

 

地方に住んでいる人ならはっきり見えるはずだ。
社会のルール、成り立ち方が様変わりしてしまったことを。
例えば、「立地主義」はもはや通用しない。
地方のまちはシャッター商店街だらけ。
中心商店街が活きている地方都市はきわめてマレ。

20141001

「製品至上主義」も幻想になった。世の中に良い製品はあふれている。
「うちはいいものを造っているから」「最高のモノを仕入れているから」
だけでは見向きもされない。
いいモノはあふれている。しかも値段も安い。

 

コンビニのセブンイレブンはもはやただの小売チェーンではない。
国内1万7000店舗をバックに日本一のバイヤーとなり、
独自ブランドを次々メーカーにつくらせている。大手が工夫を怠らない。
弱小零細な店がどう太刀打ちしていくのだろう。

 

■何もしない、はリスクが高すぎる

あなたは知らない町の知らない通りで、知らないお店に入るだろうか。
コンビニなら立ち寄りそうだ。初めての店なのに抵抗感もない。
なんのストレスも感じないだろう。なぜか。
「コンビニ」という業態が確立しているからだ。

 

他の業種ならどうだろう? 
店を示すのは看板、のれん、ショーウィンドー……。
そういったものがわずかに店の概要を伝えるばかり。
その店に行く目的や理由がなければ入る気にはなれないのではないか。
でもその店の“評判”を知っていれば、のぞきたくなるかもしれない。

 

地の利がなくなり人の縁も薄くなった。
一方、良い商品やサービスはまちにあふれ、情報はあふれ返っている。
その上、ソーシャルメディアが普及し“もの言う生活者”が増えた。
良い評判を得ればクチコミされる代わり、知られなければ「ない」も同然。

そういう中で事業を営むときに何もしないでいたら、私は不安だ。

 

■「商品でなく”自分”を売る」も気色悪い

先日、Facebookで知り合った人のイベント会場で、
「Facebookはコワいと言うので、こんなイベントに参加していますが、私は(Facebookを)やりません」という女性に会った。フラワーショップを開いている人だった。

「コワいからって、現実に店を路面にオープンしていることの方がよほどリスクは高いでしょ?」と言いかけて、やめた。

 

こういう人が残念ながら非常に多い・・・・。
会社を経営する人、お店を持つ人、個人事業主、営業パーソン、専門家、芸術・芸能方面、そのほか真剣に仕事に取り組み成果を上げたいと思う人は、一人残らずFacebookを始めた方がいい、と私は今でも本気で思っている。

 

Facebookは確かに、その場でモノを売り込むのには向いていない。
Facebookが関心を集めているとき、セミナー講師やマーケターたちはさんざんFacebookでいかに自分を売り込むかを説いてきた。
はじめのうちはむき出しで商品やサービス、店の売り込み方を説き、それがダメとわかってからは「自分を売り込む」「信用を創る」のだと。

 

しかしそういう説得の仕方は、オオカミがヒツジの革をかぶっているみたいで、私には気色悪かった。

 

■Facebookはマーケティングの手下じゃない!

そうではない。
自分を語るのだ。
等身大の自分だ。

 

友達の友達に売り込もう、あるいは友達と信頼関係を築いて(その友達から)お客さんを紹介してもらおう――だなんて、結局は誰かを”見込み客”とする昔ながらのマーケティングの思考ではないか。

 

Facebookはマーケティングの手下じゃない。

 

Facebookで友だちに見てもらっているのは、全部じゃないが、自分のまじめな、真剣な一面だ。
この点で私はウソ、偽りをいわないし、自分を飾りたてない。

4年もFacebookで書き続けていれば、”わたし的な”物言いや、考えていることは親しい友達には伝わっている。

 

今のところ、時間を掛けてつくってきた、途方もない時間を割いてつくりつつある”私というイメージ”が直接的に仕事に結びついている面は多くはない。
しかし、なんだかんだと言っても、いま私が仕事を続けていられる契機はすべてFacebookから得られている。

 

■マーケティングとはお客様に喜んでもらうこと

私はマーケティング的な発想を否定しない。
私にとってのマーケティングとは、「徹頭徹尾お客様に喜んでもらう」だ。
そうでなければ”ファン”になどなってくれない。

 

私は出版社の社長である。
私のお客様は本を創りたい人。
お客様に喜んでもらうというのは、格安で本をつくることではない。
その人に合った「本の在り方」を見つけ、それを実現すること。

 

お客様は本づくりに関してほとんど知識を持っていない。
出版業界のことを知らず、本の流通の複雑な仕組みを知らされていない。
だから適正な費用も知らないし、手間暇かけた本と、
即席に作られる本の差異にも気づかない。

 

これらを正しく説明するのは骨が折れる。
たぶん説明しても、1円のもうけにもならない。
しかしこれを知らせないのでは自分の出版人魂にもとる。
発表の場はFacebookやこのブログになる。

 

■    □
つい自分のことを話してしまったが、Facebookは自然にコミュニティができる。
そこにいる人はごまかしが利かない。
だから私はいつも「正直な自分」と向き合わされる。
小手先の調子のいい弁舌は自分で恥かしくなってくる。

 

実名のFacebookは多くの欠点を抱えながらも、今までのどのメディアにもない希望を与えてくれた。
この場をとても大切に思っている。

 

Facebookは品格あるマーケティングに最適の場だと、私は信じている。

 

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ジャーナリスト石川秀樹>■■電本カリスマ.com

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