日本人はFacebookを使いこなせない!!
残念ながら、このごろそんな風に考えるようになった。
今のように「実名主義」にビビって自分を殺していたら、社会やくらし、世の中の価値観や信じるもの、人々がよりどころとするもの――を、変えられるわけがない。
■日本のFacebookは“今の日本”の縮図
今の日本は「閉塞社会」だという。
人々は小さな集団で群れ集い、そこから外されることを極度に恐れる。
Facebookへのビビり気味の対応は“その縮図”のように見える。
これはFacebookが悪いのではないのだろう。
使っている私たちが周りを見ながら恐る恐る使っているからだ。
「商売に使っては失敗する」と聞けばうのみにして語らぬフリ、
そうかと思えば頭隠して尻隠さずの気色悪い”誘導”、
「コミニュケーションのためのツールだ」と言われればまじめにうなずき返し、
「共感しなさい、ほめなさい」と耳にすれば義理や習慣のようにいいね!を返す。
もっとFacebookは自由なものなのに、右を見て左を見て、人に合わせることに汲々としているから、ちっとも投稿がエキサイティングにならない。無難、安全、当たり障りがないを旨として、書きたい本音を書かないから、心が躍らないのだ。
■人生の中心軸である「仕事」をなぜ語らないのか
発信したい私がとっている流儀とは『ずいぶん違うな』と思う。
身辺の毒にも薬にもならないことばかり語り、仕事のことは避けよう、なんて思わない。
自分にとって大切なのは、家族、仕事、そして勝つための戦略だから、
個人ページでも、Facebookページでも、仕事を中心に気づいたことを書く。
それは第一に自分のためだし、また人の役に少しでも立ちたいからだ。
「この歳で、儲けなんかどうでもいい」などと私はいわない。ウソは嫌いだ。
嫌いだと言う以前に、<そんなバカなオレでは恥かしい>と思ってしまう。
仕事は仕事であって、道楽ではない! 世のため人のためにも真剣でなければならない。
そのために「売り込んで儲ける」ことは私の使命だ(うまくは言っていないが)。
知ってもらわなければ何も始まらない。儲けがなければ次に進めないではないか。
確かにFacebookの中で仕事や商売の話を書くと反応は少ない。
これはいったいどうしたことか? と思うほど!
最近は仕事だけではない、趣味の話でさえ“集めたい”と懸命になるほど熱気がしぼむ。
なんと男前、女前のよい人が消え失せたことか・・・・。
「今度、コンサートをやります、ぜひ聴いてください」
有料でも無料でも、<来てほしい>の気持ちが出た途端にスーッといなくなる。
“反応がない”というのがいちばんこたえる。とても悲しい現象だと思わないか?
どんな趣味、どんな仕事であろうと、ほうっておいて大繁盛なんてことはない。
大会社はコストをかけてアピールするし、有名人は当然のように好き放題に語る。
するとFacebookユーザーはそれには安心しきって、うれしそうに反応するではないか。
Facebookの担い手はふつうの人々だ。あなたや私のように“ふつうの人”。
でも、ふつうの人の懸命な訴えに限って耳を貸さない。なにか感覚がズレている。
「逆だろう!!」と思うのだ。
Facebookもまた“強者”のみがもてはやされるツールで、いいのだろうか。
■Facebookこそ普通の人の「共有」であるべきだ
ソーシャルメディアであってもマスメディアと同様に有名人、大企業が有利。
それは仕方ないのかもしれない。
人は有名人が好きだし、あこがれる。
はなから自分とは違う人間と思うから、反応が手放しになる。
ところが自分と同じ人たちには、本音は「からい」のだ。
人はそういうものだ。
そんなものだと思うのだけれど、Facebookの交流を見ていて
私は今までのソーシャルメディアとは違う可能性を見ていた。
これほど濃密なやりとりを繰り返しているのだから。
リアルな世界以上に、こんなにも毎日毎日、言葉を交わしているのだから。
だから・・・・、と期待する部分が大きかった。
Facebookはイヤでも自分を中心にしてコミュニティが創られる。
望んでもいないのに「人の輪」を、勝手に形成してくれる。
その中にいれば心地がよい。
しかしその「人の輪」はいざというときに限って、消える。
もっとも応援してもらいたいときに頼みとする人がいなくなる。
タレントにでもならなければ、誰かのたまさかの支持さえ得られないのだろうか。
「人脈」というのは、会って話してお酒を飲んで、実利面で助けたり助けられたりしながらつくるのが王道だ、Facebookは入り口、ただのきっかけで、(だから)知り合ってからが本当の勝負だ――。
と、そのように言われれば、『 はい、まったくお説の通り 』 とは思う。
だがしかし、と私は思うのだ。
酒を介しない関係でも人間関係は築ける。
Facebookだけのつきあいでも、心を割った関係になることはある。
会ってはいないのに、大切な人はいる。
現実に、私みたいに偏屈な人間にもそういう人たちが何人かいる。
■奇跡の出会いでなく、普段着の協力こそ大切だ
Facebookがもたらすものは“奇跡の出会い”かもしれない。
しかしそんな奇跡ばかりではなく、
常日頃の会話の中で応援したくなる人がいる。
助け合うマインドが自然に生まれてくることがある。
Facebookがこんなケチくさい空気に包まれていなければ、
もっと本当の共感ができるのではないか。
いいなと思えばいいね!という。
努力している姿には拍手を送る。
それが商売であってもなくっても!
お金が好きでも笑わない、さげすまない。
そういう関係がFacebookだけを介してもできるはずだ。
いざというときに無理がきく人を「人脈」というなら、
そんな男前、女前は現実社会でもめったにいない。
だからFacebookにそこまで求めることはない。
もとめる必要はない。求めるな! だって?
求めなければどうなるのか?
個人の“利益”にかかわることはすべてタブーで商売の「し」の字も出ない。
偏狭で息苦しい世間に、このFacebookが成り下がる!
Facebookがそんなつまらないものになることに私は我慢ができない!
■野心や欲望が抜け落ちている日本のFacebook
Facebookを創ったザッカーバーグはこうも言っている。
「Facebookは現実の交流をもっと深く、もっと強くする。
このツールをみんなが使い始めれば、世界はもっとフラットに透明になると。
実際のFacebookは「現実」と等身大になりはしなかった。特に日本では。
いちばん人間的な部分、野心や欲望がするりと脱け落ちている。
今の日本のFacebookにはがっかりだ。
こんな身ぎれいで、痛みのない使い方を、みんながみんなしていれば、
社会は変わらないし、透明にもならない、活力なぞ生まれるわけがない!
日本のFacebookは現状を何も変えていない!!
変えないどころか、本音が隅っこに隠れて気兼ねがばかりが心に巣くって、
人間関係をますます複雑にするばかりだ。
こんなソーシャルメディアはつまらない。
Facebookを使うなら自由かっ達に使うべきだ。
実名だからとビビらないでほしい。
現実と同じ節度と勇気と、少しばかりの気配りで会話していけばいい。
違うかな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
★Facebookにはがっかりだ! 「日本発の改革」にはなりそうもない・・・・
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