最近考えさせられたのは「STAP細胞」を発見した小保方晴子さん関連の報道だ。
細胞にわずかな振動を与えただけで情報がリセットされて万能細胞に変わる、
iPS細胞よりもつくり出すのが簡単、
生命科学の常識を覆す世界的な大発見だ―と伝えられた。
理研が発表した日、「やったな!」と心が躍った。
小保方さんが異分野からの研究者だったから、
「生命科学界の常識にとらわれず、実験を続けられた」と称賛された。
彼女は一朝にしてヒロインになった。
それが一転・・・・である。
なにしろ英科学誌『ネイチャー』がトップで取り上げたのだから、
私が記者でもあのように書いただろう、と思う。
だから記者稼業というものに時々、忸怩(じくじ)たる思いを抱くのだ。
『ネイチャー』が載せ、理研が正式会見を開く。
発表資料がどっさり。
注目率が高く競争もある。
世界的な発見らしいと伝えられたから科学部だけでは記者が足りず、
社会部あたりからも駆り出されて小保方さんの雑観記事を書いただろう。
その時点で論文に疑義の挟みようもないから、記者は聴いたことを書く。
論文の信ぴょう性を疑い出したのは、実際に追試を始めた専門家たちだ。
「結果が出ない」のだから、誰かが勇気を出して声を上げたと思われる。
小保方さんにだます意図があったのか、
STAP細胞がそもそも存在するのか、
さっぱりわからない状況になった。
わからない状況になって考えるのは「情報とは」である。
これほど多くの“知見”ががん首そろえてもニュースは走った。
福島の原発事故の場合はどうだっただろう。
ウソがあった、意図的な情報隠しがあった。
わざと小出しする、ほとぼり覚めてから発表、なんて手も使われた。
記者たちは手もなくひねられ、情報歪曲のお先棒担ぎになってしまった。
結果、東電の姑息、政府の卑怯が指弾されるエネルギーは小さくなった。
情報の出し手の思惑通り。
これを見抜くには相当な知識がなければならないし、勘も働かせなければならない。
それでも人はだまされる。
だから情報の伝え手(この場合は「記者」)は
際限なく努力して知見を広げなければならないし、
一方、受け手も「情報とはそういうものである」ことを承知していなければならない。
情報は、発信者が意図をもって伝えたときには誤り伝わる。
マスコミを介すれば、ウソが増幅して流布されることもある、ということである。
小保方さんはヒロインになり、今度は泥にまみれるだろう。
凶悪犯罪が起こった時、容疑者とされる者の“いかにもの人となり”が報道される。
一転無罪が証明されても、焼き付けられたイメージは容易に消えない。
まとめ。
記者に限らず、情報を発信する作業は責任が伴いたいへんである。
しかしながら、細心の注意を払い知識を深める努力をしていても、
人の作為やウソは簡単には見抜けない。
だから、どんな情報も100%の真実とは限らない
そこで、情報の受け手としては以上のことを“常識”として知っていなければいけないし、
何がほんとうかを見定めるためには「うのみにしない」訓練が必要だということを
強く自分に言い聞かせておかなければならない。
最後に大事なことを書いておきたい。
うのみにしない訓練をするというは、
常日頃から情報に対してはお金と時間と手間暇を掛けることだ。
ネットで流れるニュース、テレビのもっともらしい報道、
新聞の大見出しも、みなが大騒ぎをする時は
<まてよ、これは100%ほんとうか?>
と、脳の一角では断定を避け「留保する」冷静さをもつこと。
そういう姿勢を常とするためには、
情報はとても大事なものであることを自覚する。
情報への感度を高めるためにはきちんとお金も払い時間も使う。
「情報に対価を払おう」というのはそういう意味である。
★「情報には対価を払おう」が通じない! 私がおかしいのだろうか??
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