★琴奨菊を感動させた動画「鷹の選択」はウソ!、と嗤う(わらう)テレビ朝日の不見識

琴奨菊と鷹の選択
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ガセ動画(と言われる)「鷹の選択」を観て発奮し、1月場所で日本人力士50場所ぶりの優勝を果たした琴奨菊を、笑って茶化したテレビ朝日の不見識を私は嗤(わら)う。
実はこの番組「中居正広のミになる図書館」(テレ朝系で火曜夜11:15~)に、私もひょんなことからかかわりを持ち、本意ではないコメントを引用された。今さら番組にイチャモンを付けたいわけではないが、真意だけは伝えておきたい。

 

■テレ朝のノリに首をヨコに振りたい

鷹の選択」は今では”ガセ動画”のように言われ一部では有名になっている。
「一部では」がキーポイントで、テレ朝の番組は素朴に信じている人もいることに着目して作られたようだ。
以下のようなシナリオではなかったか、と推測する。

 

鷹の選択」はガセ動画である。
でも、内容自体は感動的だ。
その話を信じて発奮したのがなんと、琴奨菊
あの動画を見て素直に感動しちゃうなんて、実に愛すべきキャラだ。
でも、ちょっとおバカじゃない?!

 

モンゴル勢に押されっぱなしの角界、そんな中で日本人として50場所ぶりの優勝はまさに「金星」だ。
そんなすごいことをやってのけた大物が、こともあろうにガセ動画を心の支えに大きな仕事をした! その成功者をちょっと高見から眺めて”真実”を教えてあげる、まさに「聞かなきゃよかった」のかっこうのネタではないか。それは決して(いじめのような)悪意から出た発想ではなく、ちょっとキャラをいじくり回して一緒によろこびたいだけだよォ───
というのがこの番組のノリだったと思うのだが、まじめな私はつい首をヨコに振りたくなってしまう。

 

■私も番組に恩恵を受けたひとり

正直に言えば、私もこの番組の恩恵を受けたひとりである。
ブログへのアクセス殺到し、書き手名利を感じだという意味で。
異変が起きたのは2月9日深夜(下のグラフ)。

ブログアクセスが深夜の急騰

このブログのアクセスが深夜に急騰していた

 

iPhoneのブログ分析アプリの画面で、アクセス数のグラフがほぼ直角に上がっている! こんな琴、今までなかった。
『何が起きたのだろう?』
急いで階下にあるパソコンを立ち上げブログを開く。するとエラー表示。サーバー運営者がダウンを恐れて、ブログへの流入を一時的に止めたらしい。
こういう椿事に、ブログの書き手としては興奮を隠しきれない。

 

▽問題のブログはコレ↓
★動画「鷹の選択」できすぎたストーリー、拡散させるあなたにも責任!

 

■「鷹の選択」に琴奨菊が関連するとは・・・・

実は伏線がある。
しばらく前、iPhoneに唐突にテレビ朝日の担当者から連絡が入った。「中居の──」と番組名を言ったと思う。なにしろフイのこと。戸惑っているうちに、ブログの筆者であることの確認と、「鷹の選択」に対する短い感想を求められ、答えた記憶がある。それっきり忘れていた。この時点で、もちろん琴奨菊の「こ」の字も出ていない。

 

鷹の選択」を批判した記事へのアクセスは時折、忘れたころにミニブレイクすることがある。ネットか何かで誰かがこの動画を話題にして、その余波として私の記事も読まれるようなのである。ところが今回のはばかにドハデである。なので気になって”原因”を考えていた。昨夜フイに、テレ朝から電話があったことを思い出した。
それで、すかさずググってみた(Google検索)。

 

「鷹の選択」と琴奨菊

「テレビ朝日」「鷹の選択」でググった結果がコレだった

 

テレビ朝日 鷹の選択]で検索した結果がコレだ。
思いもしなかった「琴奨菊」の名が上位にずらりと並んでいる!?
『ああ、これだったのか・・・・』と分かった次第だが、
それにしても「琴奨菊」の名がこんな形で出てくるとはねぇ。

 

■「鷹の選択」に素直になれなかった私

ここからは持論を述べたい。

 

一言でいえば、私は動画「鷹の選択」に敬意を感じこそすれ、悪い動画と思ったことはない。内容がフィクションであったとしてもだ。
また、この動画を真に受けて発奮して立派な成績を残したのだとしたら、私は琴奨菊を(結果のいかんを問わず)尊敬する。
琴奨菊こそが一番えらい!

「鷹の選択」は、毎月通っている経営塾の講義で紹介されて初めて知った。
内容はみなさんご存知の通り。老いの坂を迎えた鷹が自らくちばしや爪や羽を痛めつけ、自傷することで体の機能を回復させて、再び高みへと飛翔していく──。
動画が終わって塾長が塾生一人ひとりに感想を聞いた。
「石川さんは?」

 

私は62歳で新聞社を退職。小さな出版社を立ち上げ、行政書士の仕事も始めたばかり。”第2の頂き”を目指して奮闘中というのは、まさにこのシチュエーションの「鷹」に似ている。だからこそ塾長は私にいの一番にこの動画を見せたかったのではなかろうか。それなのに
「これ、本当のことでしょうか?」と私は、にべもない答を返した。

 

■「感動した」では照れくさい

まったく大人げない!
人とは違う反応をなぜあえてしてみせたのだろう(めんどくさい男だっ!)
誰だってこの動画を初めてみたら感動する。
何しろ再生の物語だ。自らに苦難を課し、黙々と耐え、乗り越えることで一段高みに上がる。
はまりすぎていて、ただ「感動しました!」では照れくさいくらいだ。

 

この動画、私のような天邪鬼にはそういう反応を起こさせるところがある。
あまつさえ私は、リテラシー(与えられた材料から必要な情報を引き出し、活用する能力)という理屈を引っ張り出して翌日、ブログに記事を書いてアップした。
「よい話、感動の話も、うのみにしちゃあダメですよ」と。
間違ったことは言っていない。メディアの情報には必ず作為と脚色、デフォルメがある。善意であろうと、悪意に基づいてであろうと。そして発信者が巨大メディアであろうとSNSのような個人発であってもだ。で、この動画はいくつかの根拠により「事実に基づく動画」ではなく、「フィクション」だった。

 

■否定側で使われた私のコメント

当時(2014年7月19日)もこの動画に対する疑義の記事、なくはなかった。
今回は中居くんの番組で、専門家を引っ張り出して3、4点ほど決定的な”ウソ”を指摘し、琴奨菊の熱を冷まさせた。
私のコメントもこの文脈で引用。

 

<この動画は数年前にネットで話題になり、『フィクションだ』という指摘も出ました。再チャレンジする勇気という意味ではいい動画かもしれませんが、鷹の生態については違うでしょう。視聴する際はくれぐれも『フィクション』と意識して楽しんで欲しいですね>(ITジャーナリスト)

 

電話で話したことの断片は、確かにこれで伝わっている。ただし以上は一般論だ。コトショーの物語を聞かされてそれに答えるなら、こんなこと言いはしない。優勝したという事実の方が圧倒的に意味があるからだ。

 

こんな風に「動画はウソ」と突き付けられて、琴奨菊は大人だから大いにガッカリして見せ、満座の笑いを誘ったわけだが、
本心は『そんなこと、どうだっていい』だったに違いない。

 

■「鷹」は「琴」発奮のきっかけに過ぎない

彼は一月場所の覇者である。勝ったのだ!
動画で鷹は自らくちばしを折り、爪をはぎ、羽を抜いてぼろぼろになった後、時節を待って心身のエネルギーを回復させて再び大空に飛翔する。
鷹40歳、コトショー32歳。正直言って、誰もこの人が勝つ(優勝賜杯を握る)なんて思っていない。本人だって忘れかけていた志を、1本の動画を見ることで思い出す。
志を思い出したことで「努力」という2文字も思い出す。決意し、今度の決意はことのほか固かった。
これが「琴奨菊の物語」だ。

 

きっかけは動画でも何でもよかった。動画が描いた「(真実めかしい)ストーリー」が琴を発奮させたというのがこの話の「真実」である。
新たな決意を己の起爆剤にして、自分を変え、自分を磨き直し、精神力も鍛え直して土俵に立った。
こういう男に、後付けで「あの動画、ウソでした。(それを知って)どんなお気持ちですか?」と聞くのは野暮であろう。

 

琴奨菊は「鷹の選択」がウソだったと知った後でも、「ガセ動画」という蔑称は絶対に使わないと思う。
フィクションと分かった後でも、「つまらない」とは思うまい。
ただ「鷹の選択」に対しては、「感謝、感謝」ではないか。

 

■言葉に流される9,999人

もう一言、リテラシーの観点から───

 

動画「鷹の選択」を観て感動する人は多いことだろう。
しかし、自分の後半生の生き方を変えるまでに徹底して「古い自分と決別しよう。経験も、技術も、知恵もリセットして、新しく生まれ出ずるすべての能力、機能を使って、新しい自分をつくっていく」と思える人は、何千人、何万人に一人ではないかと思う。
その稀有な代表例が琴奨菊の成功であった。

 

鷹の選択」動画をフィクションと見抜いた気でいた私のリテラシー論は、なんとみすぼらしかったのだろう。
ウソと真実という分かりやすい定立より、この動画の創意とはなんだったのかという「問い」の方がはるかに素直で力強い。
真実のテーマは「私は変わる!」だ。
古い自分を捨てる怖さより、捨てて浮かぶ瀬を見つけようという、「自分を変える」という揺るぎない決意の重さである。

 

分かった気になるのは簡単だ。
感動するのはさらにさらに容易だ。
でも1万人に対して9,999人は「感動しました」だけで終わる。
そういう読み方、感じ方が圧倒的に多い。

 

分かったつもり。
受け止めたつもり。
そういう人は、誰かが「この動画、ウソでしょ?」と言えば、すぐに熱から冷める。
熱から冷めて、今度は「この動画、ウソでしょ?」と言う側に回る。ウソという根拠について深く考えることもなく、また次の話題に乗っかっていく。

 

■「つもり」では何も変わらない

「分かった」だけでは何も変わらない。
”わかった気”ではもっと頼りない。
ガーンと頭を叩かれたような衝撃を受けるのは相当なことだが、その衝撃を受け止め、自分のこととしてとらえ直して具体的な一歩を踏み出すこと。コトショーがやったのはそれだ。
琴奨菊の稽古は、それ以前とは変わったはずだ。

 

「鷹の選択」はフィクションだったとしても、フィクションを承知で作った制作者がいたおかけでこの日本で、琴奨菊という「発奮者」を現出し、”生きた見本”を生まれさせた。
動画制作者の本懐だったのではないか。
1つの情報に出合い、真贋をただ見極めるだけでは意味がない。
「真実」と「ウソ」の向こうに何があり、自分はその「何」に対してどのように感じ、感じたことを自分にどう取り込み(あるいはスルーして)どんな自分をつくりあげていくか、というのが「リテラシー」の本質だと思う。

 

琴奨菊を嗤う側に立っていた私は「リテラシー」を語る資格がない。
自省を込めて───

 

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ジャーナリスト石川秀樹

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