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★「延命治療拒否」の論理!生かされる意思・死ぬ意思を公正証書にしておく

 

けさ、Facebookの友人の書き込みを読んで考えた。

 

さすがに介護は疲れます。
朝昼晩の食事、薬を飲ませること、、、、いっぱいあって。
親子って難しい関係だとしみじみ思います。

 

そして言うのである。

 

「生んでくれてありがとう」というコピーをよく見かけますが、
生もうとして生んだのか、たまたま生まれたのか・・・・・・

 

さすがに「書きすぎた」と感じたらしく、
「冗談半分ですから」と語尾を濁したが。

 

■身につまされる「介護」に伴うリスク

彼は私よりも年長だから“老老介護”の状態に入っている。
重労働であることが想像できる。
それで、こんなコメントを返した。

 

Aさん、痛切によく理解できます。
うちは母は寝たきりで意識なく老人病院に入っています。
父のボケは進み、毎度失禁する状態。
いずれ間違いなく両親の頭から私の記憶は消えていきます。
たぶん父の最後に残る私の記憶は「恨み」でしかないでしょう。
長生きは罪、これが今の私の実感です。

 

両親が罪だ、と言っているのではない。
長命社会が善、100歳長寿を「おめでとうございます」といっている社会が、
本当に善なのか、100%幸せなのか?と言いたいだけである。

 

介護ベッドで意識もなく。長年月生かされないよう、延命治療拒否を書いておこうと思う

 

母はすでに私の記憶をなくしている。
食事はしない。
鼻からチューブを胃にまで届かせ、直接、栄養補給している。
そういう状態で、まだ何年も生きるだろう。

 

父は「足が動かない」「字が小さくなっちゃう」と言いながら、
なお自転車をこぎ「あと10年は生きたい」といっている。
しかしボケは確実に進行しており、失禁は日常だ。
家族にも限度があって、小言を言うのは私。
本人は“被害者”だと思っているので、恨みをためていくばかり。

 

年寄りの頑固さなのか、生来の意地悪なのか。
素直に聞くことはなく、ねじれた感情は私の妻にも向けられる。
長く生きるということは、こういう状態になる、ということでもある。
認知症により、感情の歯止めが失われるのだろう。

 

■自分ならどうするか、「麻生発言」を思い出す

人間の晩年、一定の確率で間違いなくこのような状態になる。
それは避けられないこと。
だとしたら、今度は、自分はどうするか、だ。
いずれ行く道がわかっているのだから、健全な選択をしたい。
正気の選択をしたいのだ。

 

結論は決めてある。
延命治療は拒否する。
だがそれを説明する前に、昨年の「麻生発言」に少し触れておきたい。
元首相、失言癖で最高位を棒に振った人だが、直感鋭い人でもある。
こういう発言だ。

 

いいかげん死にたいと思っても『生きられますから』なんて生かされたんじゃあ、かなわない。
しかも政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うとますます寝覚めが悪い。
さっさと死ねるようにしてもらわないと。
(引用は「共同通信」から)

 

この時も、マスメディアからは袋叩きに遭った。
昨年の1月21日、政府の社会保障制度改革国民会議で、
余命わずかな高齢者の高額医療について聞かれてこう答えた。
本音であり、正論ではないか。

 

胃瘻(いろう)という処置は本来、延命のための方法ではなく、
「回復」を前提とした、つなぎの栄養補給法である。
これを高齢者に長く施した場合、命はつながれるが体はエビのように曲がる。
母は胃瘻ではないが、鼻からの補給でほぼ同様の効果を得ている。
見舞うたび「ほんとうにこれを望んでいた?」と聞きたくなる。

<2ページに続く⇒⇒⇒

 

■「延命治療拒否」の意思をどう担保させるか

若いころは、死ぬのはイヤだ、と思っていた。
今もその思いはある。
しかし今なら、それが”幼稚な感情”であることがわかる。
永遠に生きていたいなどと思うのは、業(ごう)であろう。

 

だから、延命治療は拒否したい
措置をして、回復し、書いたり考えたりする能力が取り戻せるなら、
その見込みがある治療なら、感謝して受け入れる。
しかし、生きているだけなら治療は不要である。

 

現実問題として、生死の境目の治療はいくらでもあるだろう。
救急治療の場合、医師は生存に向けて全力を尽くす。
それは人として当然だ。
だが、ここで問題にしていることはそのことではない。
緊急時の選択ではなく、回復期、安定期の問題である。

 

助かっても、本人の意思がもはや定かでなくなった時、どうするか。
麻生さんじゃないが「さっさと死なせてくれるのか」という問題。
延命治療があることを説明して、家族に「どうしますか?」と問えば、
十中八、九は「お願いします」と言うに決まっている。
だからこの時、私は自分の意思を残しておきたい。

 

■「遺書」では生前のことに間に合わない

麻生さんはこんな発言をしている。

 

私は少なくとも遺書を書いて、そういうことをしてもらう必要はない、
さっさと死ぬからと書いて渡しているが、
そういうことができないと死ねません。

 

残念ながら、麻生さんは間違っている。
「遺書」として書いたのなら、本人が死ぬまで開封できない。
一方、ただの書付では法律の根拠としては乏しい。
それを見て医師が「はい、そうですか」と言うとは思えない。

 

そこで考えているのが「公正証書」として遺す、という方法だ。
民間団体の「終末期宣言書」や「医療・ケアについての意思表明書」
などもあるようだが、(家族に対する)強制力の点で心もとない。
※家族の抵抗感(後ろめたい感情)を「法」を楯にして説得するということ。

 

公正証書は公証役場に行って公証人に意思を筆記してもらう。
証人2人の同席が必要だが、友人で十分。
費用は自分で手続きをするなら1万円台で済むはずだ。

 

日本の場合、終末期医療についての法整備が進んでいないので、
最期の意思が医師と家族にゆだねられてしまう。
書き続けられるなら(それだけ意識清明なら)病院でも生き続けたい。
意思表明さえできないなら、チューブは不要である。

 

そうは言っても「リビングウィル」を公正証書にすることは、
一般の人には難しいかもしれない。
法律に「意思」を邪魔立てされないよう手を打つ必要がある。
行政書士の端くれとして、理論武装をしておかなければ、と思う。
仲間を募って、さっそく研究していくつもりだ。

 

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ジャーナリスト石川秀樹>■■電本カリスマ.com

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