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★写真家・外山ひとみ 若き日の肖像

 

写真家(フォト・ジャーナリスト)の外山ひとみさんが亡くなった。
急性骨髄性白血病。
こんな派手な病気じゃなくてもよかったのに…」と本人は苦笑しながら、
今年元旦にむけて、彼女はFacebookにこんなメッセージを寄せた。

 

見えない敵は怪しげで手強いけれど、やるべきことは貫徹してきたので、
精神は元気です

 

思いがけない死だった。
まだ55歳、一番仕事ができる年頃だった。
6月3日、通夜。
その日、僕は友人からのメールで彼女の死を知った。

 

彼女とは、かすかな接点がある。
ひとみさんがプロとしてデビューしたのは20歳の時。
処女写真集『家』を自費出版した。
日本中でただ一人、僕が取材した。
1980年7月のことである(全文を掲載する)。

 

20歳 私は社会派カメラマン

私は社会派カメラマン―「と言っても、まだ全くの駆け出し、右も左もわからない状態なんです」。外山ひとみさん=東京都中野区新井1-10=は、あわてて真顔で打ち消した。県立吉原高校から東京写真短大(現東京工芸大学短期大学部)へ。「写真じゃ食べていけないよ、やってもムダだからやめろって、みんなに言われます」。ただ今二十歳。恐れを知らない年ではない。が、このほど処女写真集『家』を自費出版し、プロへの道を一歩踏み出した。青春の結晶であるとともに、ひとみさんにとっては精いっぱいの“独立宣言”なのでもあった。


●『家』 ジーパンにブルーのトレーナー。カメラを持つときはいつもラフなスタイルだ。
―写真集の売れ行きは?
「本屋さんやギャラリーに置いていただいて、なんとか600部ははけました。知人や友達にもずいぶん“押し売り”しちゃった」
『家』は短大2年のときから撮り始めた。富士市宝町の小さな家(母親の実家)を素材にちょうど1年。フィルム500本、1万8千コマを費やした。
「まずは身近なものからと。小さいころから見てきた家です。それが取り壊されることになったんです。客観的に撮ったつもりなんだけど、子供のころの体験とか郷愁みたいなものが写真には投影されたみたい。レンズというろ過装置を通して自分なりの思いが刻み込まれたというのかしら」

フォトジャーナリスト(の卵だった)外山ひとみさんが20歳の時に出版した処女写真集『家』を紹介する静岡新聞の記事

 

●市長賞 写真との出会いは高2の時。部員20人の写真クラブに入った。が、実質は“開店休業”状態。逆に生来の負けずぎらいの性格に火がついた?!
「友達3人とキヤノンを買ったのが直接のきっかけ。3人で勝手に撮り始めて…。その夏の市展に出したらなぜか市長賞をもらっちゃったんです」
九合目から写した「富士のご来光」のカラー写真だった。翌年も「少林寺拳法―投げる」(モノクロ)で続けて市長賞に。
「前の年のはまぐれ。それがきっかけで、全日写連の富士支部に入って1年間まがりなりにも勉強しましたから、2年目の方が心配だった。

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●手紙 高3の9月のある日、友人のちょっとした言葉が大きく心を揺さぶった。「せっかく写真をやってきたんだから、将来もそっちに進んだら」―。
両親は猛反対だった。父親仁さん(53)は地元の製紙会社に勤める普通のサラリーマンである。「平凡な道でいい。なにも好き好んで大変な道を行くことはないじゃないか」と、父親の気持ちをぶちまけた。
「普通の大学に行っても肩書一枚じゃない。私の好きにさせて!!」
母親・美江子さん(49)は二人の間に立って困惑した。冷戦が3ヵ月続いた。
結局、父の心を溶かしたのは娘からの手紙だった。
「話をしてもケンカになるばかりだったから、そっと父の机の上に置いといたんです」
写真の大学に行きたいこと、無茶はしないこと、自分の夢…を便箋十枚にビッシリ。2回目の手紙で仁さんもついに折れた。


●私が選んだ道 東京での学生生活。正直いってそれは物足りない思いをひとみさんの心に残した。
「写真で食べていこうという人は少なかったし、まして女では、という雰囲気」
就職ともなれば、写真を志す少数の者もかろうじてコマーシャル・フォトに活路を見いだすのだった。“ドキュメンタリーを撮りたい”という希望は夢のまた夢。
「迷いました。スタジオからの誘いはいくつかあったし、就職すれば暮らしのめどは立つでしょ。で、以前から師事していたカメラマンの北井一夫さん(35、千葉市在住)に相談してみたんです。そうしたら、『そんなにやりたいんだったら、期限を区切ってやれるとこまでやってみたら?』と言われて」


●道は遠く 心を決めて『家』の撮影にかかりきりになった。この5月、写真集は出来あがった。1000部刷るのに70万円。費用は50万円を両親が「成人式の祝いの代わりに」と出してくれた。残り20万円は姉に借金。
「それが負担になっていたんです。でもようやく自分で働いたお金で借金が返済できました。本当は今も家から仕送りを受けているんですよね。仕事が徐々に増えてきましたし、来年の3月ころまでにはなんとか自活の目安はつきそうなんですが。“社会派”なんていっても、今はフリーというよりルンペンみたい。最低限、自分の力で生きていかなくては」


●甘えを捨てて 今、中野区のアパートで独り暮らし。座談会の写真撮影、スタジオの手伝い、写真の現像・引き伸ばしまで、頼まれた仕事はなんでもやる。六畳一間の部屋は、雨戸を閉めれば暗室に早変わりだ。
「忙しくしていないと、これからどうなるかなぁーなんて考えちゃいますからね」
これから何を撮っていくのか、尊敬する女性写真家ドロシー・ラングやマーガレット・パークホワイトたちに一歩でも二歩でも近づくことができるか、そして自分にそんな力があるかどうか―不安がよぎるとき、負けじ魂が頭をもたげる。
「だって、おせっかいな友達がいるんですよ。“たった1年やったばかりで本を出すなんて、お金のムダよ! 早く富士に帰ってお嫁にいっちゃいなさい!!”だなんて。失礼ですよね」


●見守るだけ… プロの道を歩み始めたひとみさん、そのひとみさんを遠くから見つめるお母さんの気持ちは―
「娘がカメラをやりたいと言い出したときから、半分は(こうなるだろうと)覚悟してました。今は見守るだけですね。本人がどうしてもと言う以上、私たちには止めようもありません―。せめて自分一人で食べていける程度にはなってほしいと、祈るような気持ちです」(美江子さん)
専門家の立場からカメラマンの北井一夫さんは言う。
「初仕事のテーマとしては自分がいつも見聞きしていた“家”を選んだというのは正解だと思う。最初はハデな写真に目がいきがちなのに、わりと着実だなあという印象。出来栄えも最初に想像していたのよりよかった。タンスとか柱とか何気ないところを写すとき、素直に子供のころからそれを見てきた人の視線、まなざしで捕えている。若い人の中で久々に健全でさわやかな写真を見れたという感じ。ただ、それが先々フリーのカメラマンで生きていけるという保証にはならない。大変な世界ですからね。表現したいものがある限り、粘り強くがんばっていくしかないですね」

(1980年7月3日 静岡新聞朝刊「ニューライフ」面トップ)

<3ページに続く⇒⇒⇒


 

なにしろ20歳の娘さんだ。
当時私は30歳。
地元新聞社に送られてきた写真集を見て、魅かれたから取材したのだが、
今日の写真家、ジャーナリストである外山ひとみをまったく想像していない。
結婚観もまさに「昭和」。
女は嫁にいくのが幸せみたいな空気が、当時“革新”を狙った紙面
ニューライフ」にも色濃く投影されている。
心配な女の子を温かく見守る、みたいな流れ。

 

しかし写真家の北井一夫さんはさすがに
「表現したいものがある限り、粘り強くがんばっていくしかないですね」
とエールを送った。

 

期待以上だったと思う。
20代でサイケな10代少女たちの虚勢と実像を撮り、
30代半ばにはヴェトナム南北1万キロを小型バイクで駆け抜けた。
戦争から平和への過渡期、復興をめざすエネルギーを活写した。
世紀の変わり目にかけては「Miss・ダンディ」を撮った。
性同一性障害を抱えて男性として生きる女性たちの像だ。

 

そして、25年間追い続けたのが“塀の中に入った女性たち”。
女子刑務所の日常を撮り、昨年、3冊の本に結実した。
誰にも負けないほど粘り強かったのだ。

 

10年前、写真集の話で新宿で再会した。
線が細くて目力(メヂカラ)も弱かった“ひとみちゃん”は、
筋肉たくましく豪快に笑う、意見をはっきりいう女性に変わっていた。

 

写真集の話は富士山だった。
「煙突と電線に囲まれた日常の富士山なら撮ってみたい」
製紙のまち富士市に育った外山ひとみの観る富士は、
眉目秀麗な富士を蹴散らすような自己主張する富士だった。

 

世間の規格にはまらない人を多く撮ってきた彼女は、
強さが目立つ一方、家族思いで常識をよくわきまえた人でもあった。
規格外れだから、今度もスルッと病気をかわすだろうと思っていた。
でも、すなおに運命にしたがってしまった。

 

お疲れさま、ひとみさん。
心よりご冥福をお祈りします

 

■外山ひとみさんのことを書いたもう一つのブログ

★写真家・ジャーナリスト 外山ひとみさんが見てきたもの  (アメブロ)

★外山ひとみ急逝から半年、彼女のまなざしが違って見えた! 

ジャーナリスト石川秀樹>■■電本カリスマ.com

石川 秀樹:

View Comments (3)

  • 石川様、FBでも友達になっていただいています。浜松在住で外山さんとは彼女が入院なさる直前の新宿での刑務所の個展の折にお話をする機会がありました。その時「体調は最悪で耳が痛い」とおっしゃっていましがまさか、それほど深刻なご病気とはしりませんでした。体調不良でも大変に迫力、気力のある方だなあと感心しました。入院されてからFBに書かれる文章に、何と強い意志を持った格好良い人なんだろうと学ぶ事が多かったです。これからますますのご活躍をと祈っていましたのでご逝去を本当に残念に思いました。私も静岡県の全日写連に今も籍を置いていますので、何か外山さんには近いものを感じています。市川恵美

    • 市川恵美さん、コメントをありがとうございます。
      55歳といえば働き盛り。生きたい盛りに病に侵される。想像を絶する苦しさだったと思います。
      でも、彼女が書くと「なんでもないこと」のように見えて、こちらも楽観してしまう。
      照れ屋なんですね。すばらしい女性でした。過去形で書くのがとても残念です。

    • 市川さま

      私も新宿での個展でひとみさんにお会いし、あなたと同じように受け留めました。

      受刑者・刑務所を通して「日本社会」の現実を伝えた彼女の表現力に敬服していました。

      彼女の根底に人間愛があふれていたと思います。帰らぬ人となってしまった「外山ひとみ」さんをハグします渾身の力で∞…