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★STAP細胞の「小保方報道」をどう読むか 情報には対価を払いましょう

 

情報には対価を払いましょう」という真意を伝えるのは難しい。
本を買おう、新聞を購読しよう、音楽は正規にダウンロードしよう―
などと説教くさいことを説くよりは、
もう少し分かりにくいことをお伝えしたいのだ。
それは「情報への敬意」ということである。

 

今の時代、電子書籍は信じられないほど安価なものがあるし、
ニュース記事はほぼ無料が当たり前になっている。
音楽もその気になれば、無料でかなり広範囲をカバーできる。

 

いずれの場合も著作権保護上、好ましいとは言えない。
だから敬意を払う意味では「対価」を払うのは当たり前だし、
「払う」ということを現代人の常識にしてもらいたいと思う。
これは情報に接する姿勢の大前提であり、これ以上はいわない。

 

ここからが本題だ―――
先に結論をいっておこう。

  1. 情報発信するということは(受け手が想像できないくらいに)たいへんである。
  2. その情報を活かすには、受け手の側にも能力が必要だ。
  3. 情報活用する力は訓練と姿勢で、誰でも身につけることができる。
       


情報発信がいかにたいへんな作業か。

私にとって身近な新聞記者の生態をちょっと紹介したい。
情報発信する(=記事を書く)ためには情報を取らなければならない。
情報源は人だ。
社会部(に限らないが)記者はこれに苦労する。
守秘義務を持った公務員が相手、捜査情報など漏らしてくれるはずがない。
ないけれども、相手も人間である。

 

という話を書き始めると延々、切りがない。
人間関係を築けずに挫折する記者は少なくないのだ。
これはどの分野、どの業界、どの職種でも同じ。「人間」には苦労する。

 

記者の場合、読者から見れば新人もベテランもない。
学者並みの知識も、昨日配属されたばかりの記者の知識も記事の上では区別がない。
新聞という土俵に上れば、すべて事実だとして読まれるわけである。
書く側からすれば、これはまことにおそろしい状況だ。
だから記者は必死で勉強する。

 

STAP細胞をめぐっての会見。3月14日の理研の中間報告で理研側は深々と頭を下げたが・・・・

 

<2ページに続く⇒⇒⇒

 

最近考えさせられたのは「STAP細胞」を発見した小保方晴子さん関連の報道だ。
細胞にわずかな振動を与えただけで情報がリセットされて万能細胞に変わる、
iPS細胞よりもつくり出すのが簡単、
生命科学の常識を覆す世界的な大発見だ―と伝えられた。
理研が発表した日、「やったな!」と心が躍った。
小保方さんが異分野からの研究者だったから、
「生命科学界の常識にとらわれず、実験を続けられた」と称賛された。

 

彼女は一朝にしてヒロインになった。
それが一転・・・・である。
なにしろ英科学誌『ネイチャー』がトップで取り上げたのだから、
私が記者でもあのように書いただろう、と思う。
だから記者稼業というものに時々、忸怩(じくじ)たる思いを抱くのだ。

 

『ネイチャー』が載せ、理研が正式会見を開く。
発表資料がどっさり。
注目率が高く競争もある。

世界的な発見らしいと伝えられたから科学部だけでは記者が足りず、
社会部あたりからも駆り出されて小保方さんの雑観記事を書いただろう。
その時点で論文に疑義の挟みようもないから、記者は聴いたことを書く。

 

論文の信ぴょう性を疑い出したのは、実際に追試を始めた専門家たちだ。
「結果が出ない」のだから、誰かが勇気を出して声を上げたと思われる。
小保方さんにだます意図があったのか、
STAP細胞がそもそも存在するのか、
さっぱりわからない状況になった。

 

わからない状況になって考えるのは「情報とは」である。
これほど多くの“知見”ががん首そろえてもニュースは走った。
福島の原発事故の場合はどうだっただろう。
ウソがあった、意図的な情報隠しがあった。
わざと小出しする、ほとぼり覚めてから発表、なんて手も使われた。
記者たちは手もなくひねられ、情報歪曲のお先棒担ぎになってしまった。

 

結果、東電の姑息、政府の卑怯が指弾されるエネルギーは小さくなった。
情報の出し手の思惑通り。
これを見抜くには相当な知識がなければならないし、勘も働かせなければならない。
それでも人はだまされる。
だから情報の伝え手(この場合は「記者」)は
際限なく努力して知見を広げなければならないし、
一方、受け手も「情報とはそういうものである」ことを承知していなければならない。

 

情報は、発信者が意図をもって伝えたときには誤り伝わる。
マスコミを介すれば、ウソが増幅して流布されることもある、ということである。
小保方さんはヒロインになり、今度は泥にまみれるだろう。
凶悪犯罪が起こった時、容疑者とされる者の“いかにもの人となり”が報道される。
一転無罪が証明されても、焼き付けられたイメージは容易に消えない。

 

まとめ。
記者に限らず、情報を発信する作業は責任が伴いたいへんである。
しかしながら、細心の注意を払い知識を深める努力をしていても、
人の作為やウソは簡単には見抜けない。
だから、どんな情報も100%の真実とは限らない
そこで、情報の受け手としては以上のことを“常識”として知っていなければいけないし、
何がほんとうかを見定めるためには「うのみにしない」訓練が必要だということを
強く自分に言い聞かせておかなければならない。

 

最後に大事なことを書いておきたい。
うのみにしない訓練をするというは、
常日頃から情報に対してはお金と時間と手間暇を掛けることだ。
ネットで流れるニュース、テレビのもっともらしい報道、
新聞の大見出しも、みなが大騒ぎをする時は
<まてよ、これは100%ほんとうか?>
と、脳の一角では断定を避け「留保する」冷静さをもつこと。

 

そういう姿勢を常とするためには、
情報はとても大事なものであることを自覚する。
情報への感度を高めるためにはきちんとお金も払い時間も使う。
情報に対価を払おう」というのはそういう意味である。

 

★「情報には対価を払おう」が通じない! 私がおかしいのだろうか??

ジャーナリスト石川秀樹>■■電本カリスマ.com

石川 秀樹: