★写真家・外山ひとみ 若き日の肖像

若き日の外山ひとみさんを紹介した記事
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●手紙 高3の9月のある日、友人のちょっとした言葉が大きく心を揺さぶった。「せっかく写真をやってきたんだから、将来もそっちに進んだら」―。
両親は猛反対だった。父親仁さん(53)は地元の製紙会社に勤める普通のサラリーマンである。「平凡な道でいい。なにも好き好んで大変な道を行くことはないじゃないか」と、父親の気持ちをぶちまけた。
「普通の大学に行っても肩書一枚じゃない。私の好きにさせて!!」
母親・美江子さん(49)は二人の間に立って困惑した。冷戦が3ヵ月続いた。
結局、父の心を溶かしたのは娘からの手紙だった。
「話をしてもケンカになるばかりだったから、そっと父の机の上に置いといたんです」
写真の大学に行きたいこと、無茶はしないこと、自分の夢…を便箋十枚にビッシリ。2回目の手紙で仁さんもついに折れた。


●私が選んだ道 東京での学生生活。正直いってそれは物足りない思いをひとみさんの心に残した。
「写真で食べていこうという人は少なかったし、まして女では、という雰囲気」
就職ともなれば、写真を志す少数の者もかろうじてコマーシャル・フォトに活路を見いだすのだった。“ドキュメンタリーを撮りたい”という希望は夢のまた夢。
「迷いました。スタジオからの誘いはいくつかあったし、就職すれば暮らしのめどは立つでしょ。で、以前から師事していたカメラマンの北井一夫さん(35、千葉市在住)に相談してみたんです。そうしたら、『そんなにやりたいんだったら、期限を区切ってやれるとこまでやってみたら?』と言われて」


●道は遠く 心を決めて『家』の撮影にかかりきりになった。この5月、写真集は出来あがった。1000部刷るのに70万円。費用は50万円を両親が「成人式の祝いの代わりに」と出してくれた。残り20万円は姉に借金。
「それが負担になっていたんです。でもようやく自分で働いたお金で借金が返済できました。本当は今も家から仕送りを受けているんですよね。仕事が徐々に増えてきましたし、来年の3月ころまでにはなんとか自活の目安はつきそうなんですが。“社会派”なんていっても、今はフリーというよりルンペンみたい。最低限、自分の力で生きていかなくては」


●甘えを捨てて 今、中野区のアパートで独り暮らし。座談会の写真撮影、スタジオの手伝い、写真の現像・引き伸ばしまで、頼まれた仕事はなんでもやる。六畳一間の部屋は、雨戸を閉めれば暗室に早変わりだ。
「忙しくしていないと、これからどうなるかなぁーなんて考えちゃいますからね」
これから何を撮っていくのか、尊敬する女性写真家ドロシー・ラングやマーガレット・パークホワイトたちに一歩でも二歩でも近づくことができるか、そして自分にそんな力があるかどうか―不安がよぎるとき、負けじ魂が頭をもたげる。
「だって、おせっかいな友達がいるんですよ。“たった1年やったばかりで本を出すなんて、お金のムダよ! 早く富士に帰ってお嫁にいっちゃいなさい!!”だなんて。失礼ですよね」


●見守るだけ… プロの道を歩み始めたひとみさん、そのひとみさんを遠くから見つめるお母さんの気持ちは―
「娘がカメラをやりたいと言い出したときから、半分は(こうなるだろうと)覚悟してました。今は見守るだけですね。本人がどうしてもと言う以上、私たちには止めようもありません―。せめて自分一人で食べていける程度にはなってほしいと、祈るような気持ちです」(美江子さん)
専門家の立場からカメラマンの北井一夫さんは言う。
「初仕事のテーマとしては自分がいつも見聞きしていた“家”を選んだというのは正解だと思う。最初はハデな写真に目がいきがちなのに、わりと着実だなあという印象。出来栄えも最初に想像していたのよりよかった。タンスとか柱とか何気ないところを写すとき、素直に子供のころからそれを見てきた人の視線、まなざしで捕えている。若い人の中で久々に健全でさわやかな写真を見れたという感じ。ただ、それが先々フリーのカメラマンで生きていけるという保証にはならない。大変な世界ですからね。表現したいものがある限り、粘り強くがんばっていくしかないですね」

(1980年7月3日 静岡新聞朝刊「ニューライフ」面トップ)

<3ページに続く⇒⇒⇒

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3 件のコメント

  • 石川様、FBでも友達になっていただいています。浜松在住で外山さんとは彼女が入院なさる直前の新宿での刑務所の個展の折にお話をする機会がありました。その時「体調は最悪で耳が痛い」とおっしゃっていましがまさか、それほど深刻なご病気とはしりませんでした。体調不良でも大変に迫力、気力のある方だなあと感心しました。入院されてからFBに書かれる文章に、何と強い意志を持った格好良い人なんだろうと学ぶ事が多かったです。これからますますのご活躍をと祈っていましたのでご逝去を本当に残念に思いました。私も静岡県の全日写連に今も籍を置いていますので、何か外山さんには近いものを感じています。市川恵美

  • 市川恵美さん、コメントをありがとうございます。
    55歳といえば働き盛り。生きたい盛りに病に侵される。想像を絶する苦しさだったと思います。
    でも、彼女が書くと「なんでもないこと」のように見えて、こちらも楽観してしまう。
    照れ屋なんですね。すばらしい女性でした。過去形で書くのがとても残念です。

  • 市川さま

    私も新宿での個展でひとみさんにお会いし、あなたと同じように受け留めました。

    受刑者・刑務所を通して「日本社会」の現実を伝えた彼女の表現力に敬服していました。

    彼女の根底に人間愛があふれていたと思います。帰らぬ人となってしまった「外山ひとみ」さんをハグします渾身の力で∞…